こんにちは、三重県の魅力を発信する「三重県に行こう」運営者のまるこです。
忍者の映画やアニメを見ていると、伊賀と甲賀がライバルとして戦っているシーンをよく見かけますよね。
三重県にある伊賀と、お隣の滋賀県にある甲賀。実はこの二つの里、直線距離にすると山を挟んでわずか20キロから30キロほどしか離れていないことをご存じでしょうか。
私たちが普段イメージする黒装束の姿は似ていますが、その歴史を紐解いてみると、生まれた背景や組織のあり方、そして得意とする忍術には驚くほどの違いがあるんです。
今回は、現地を旅して感じた魅力も交えながら、知れば知るほど面白い二大忍者の違いについて分かりやすくご紹介します。
- 出身地の地形が生んだ性格と活動スタイルの違い
- 会社組織に例えられる階級社会と民主的なチーム運営
- 火薬と薬術というそれぞれの専門分野と武器の特徴
- 現代の観光スポットとして楽しめるそれぞれの魅力
伊賀忍者と甲賀忍者の歴史や特徴に関する違い

同じ「忍者」でありながら、なぜこれほどまでに異なる特徴を持つようになったのでしょうか。
まずは、そのルーツとなる地理的な環境や、社会の仕組みとしての組織図、そして得意としたスキルについて、いくつかの視点から比較してみましょう。
出身地や起源に見る地理的な違い
忍者の性格を決定づけた一番の要因は、彼らが住んでいた「土地」そのものにあると言っても過言ではありません。
伊賀と甲賀は山一つ隔てた隣同士ですが、その地政学的な条件は驚くほど対照的です。
三重県の伊賀地方は、四方を険しい山々に囲まれた典型的な「盆地」です。
かつて太古の昔、この地は琵琶湖の底(古琵琶湖層群)であったと言われており、粘土質の土壌が広がっています。
この地形的な閉鎖性は、外部からの侵入を拒む天然の要塞としての役割を果たしました。そのため、伊賀の人々は外部の権力に頼ることなく、自分たちの領地は自分たちの力で守り抜くという、非常に強い独立心と排他性を育むことになったのです。
この「閉ざされた空間」こそが、独自の忍術を極限まで研ぎ澄ませる土壌となりました。
一方で、滋賀県の甲賀地方は、京都、伊勢、名古屋を結ぶ「交通の要衝」でした。
山岳地帯ではありますが、東海道などの主要な街道が通じる開かれた場所であり、常に外部からの人、物、情報の流動にさらされていました。この環境は、甲賀の人々に「外」への意識を強く持たせることになります。都(京都)に近い地理的条件から、政争に敗れた貴族や武士、あるいは宗教者などの逃亡者が流入しやすく、彼らがもたらす高度な知識や教養が、地元の地侍たちに吸収されていったのです。
距離の近さと土壌の秘密
伊賀と甲賀は地図で見ると本当にすぐ近くです。しかし、伊賀の粘土質な土壌は、実は火薬の原料となる物質を含みやすく、これが後の火術の発展に繋がったとも言われています。環境の違いが、忍術の進化の方向性まで決定づけたのですね。
組織図の違いは階級制と合議制

二つの流派の最大の違いとも言えるのが、組織の作り方(ガバナンス)です。これを現代の会社組織に例えてみると、その違いが非常にクリアに見えてきます。
伊賀忍者は、明確なヒエラルキーに基づく「厳格な階級社会」でした。
「上忍(じょうにん)」「中忍(ちゅうにん)」「下忍(げにん)」という三つの階級にはっきり分かれており、トップダウンで命令が下されます。
経営陣である「上忍三家(服部・百地・藤林)」が戦略立案や契約交渉を行い、中間管理職である「中忍」が現場指揮を執り、実動部隊の「下忍」が命がけの任務を遂行する。
まさに、命令系統が一本化された軍隊や、昭和的な大企業のような統率されたピラミッド型組織でした。閉鎖的な盆地内で土地争いが絶えなかったため、強力なリーダーシップによる統制が必要不可欠だったのです。
対照的に、甲賀忍者は「合議制(民主主義)」で運営されていました。
甲賀には伊賀のような絶対的な権力を持つ「上忍」のような独裁的なリーダーは存在しませんでした。
代わりに「甲賀五十三家」と呼ばれる地侍の家々が対等な立場で連合を組み、地域社会を運営していたのです。
これを「惣(そう)」と呼び、さらに甲賀郡全体をまとめる連合体を「郡中惣(ぐんちゅうそう)」と称しました。
重要事項は、各家の代表者が集まる「寄合(よりあい)」での話し合いによって決定され、時には多数決の原理も導入されていたと言われています。
彼らは一箇所の城に籠るのではなく、地域全体に分散した約200もの城館網を連携させて防衛に当たりました。
これは現代で言うところのプロジェクトチームや、DAO(分散型自律組織)に近い、非常に先進的なシステムだったと言えるでしょう。
得意な忍術は火術と薬術の違い
彼らがミッションを遂行するために磨き上げた専門スキル(スペシャリティ)にも、地域の特性が色濃く反映されています。どちらも隠密行動のプロですが、そのアプローチは異なりました。
伊賀忍者が得意としたのは、圧倒的な破壊力を持つ「火術(かじゅつ)」です。
伊賀の古い民家の床下の土には、火薬の主原料の一つである硝石が含まれやすく、これを取り出す技術に長けていました。彼らは火薬を用いた爆発物(焙烙火矢など)や、狼煙(のろし)による通信、さらには火縄銃の扱いにおいて卓越した技術を持っていました。
単なるスパイとしてだけでなく、敵の拠点を物理的に破壊したり、派手な爆発で敵軍を混乱させたりする「特殊部隊」としての側面が強かったのです。
一方、甲賀忍者のスペシャリティは、化学と心理戦を駆使した「薬術(やくじゅつ)」でした。甲賀の山々は豊かな薬草の宝庫であり、古くから飯道山などで修行する修験者たちが薬の知識を持ち込んでいました。
彼らは毒薬(トリカブトなど)や麻酔薬、傷薬を作る技術を発展させました。有名な秘薬「紫雪(しせつ)」などはその代表例です。
さらに重要なのは、甲賀忍者がこの薬を武器としてだけでなく、情報収集のツールとして活用した点です。
彼らは製造した薬を各地に売り歩く「配置売薬」のシステムを確立し、日常的に「薬売り」に変装して諸国を巡りました。
薬を売りながら市井の噂話や兵糧の相場などを探り、広範な諜報ネットワーク(ヒューミント)を構築していたのです。
伊賀では現在も火薬技術の名残として「花火」や、忍具にも使われた「組紐(くみひも)」の文化が残っています。
一方、甲賀には現在も多くの製薬会社が存在し、薬の町として知られています。
忍者の技術が、数百年経った今の地場産業につながっているなんて、歴史のロマンを感じずにはいられませんね。
手裏剣の形や武器に関する違い

忍者といえば手裏剣ですが、ここにも微妙な違いや、史実とフィクションが入り混じった面白い話があります。
一般的には、「伊賀は十字手裏剣、甲賀は卍(まんじ)型手裏剣」というイメージがあるかもしれません。
しかし、歴史的な資料や現存する武具を見ると、実際には両流派ともに棒手裏剣、平型手裏剣、十字、六方など、多様な形状のものを状況に合わせて使い分けていたことが分かります。
明確に「この流派だからこの形」と厳格に決まっていたわけではなく、それぞれの地域の鍛冶屋の技術や、入手できる鉄の特性に応じた工夫が凝らされていたというのが真実のようです。
携行する道具に関しては、その活動目的の違いが装備に表れています。
伊賀忍者は戦闘や破壊工作を想定して、火薬入れ、火打ち石、鎖鎌(くさりがま)など、攻撃的かつ殺傷能力の高い武器を重視しました。彼らの任務は「敵の排除」や「拠点の破壊」を含むことが多かったからです。
対して甲賀忍者は、長期間の旅と潜入捜査を行うために、薬箱(印籠)、矢立(筆記用具)、通行手形、数珠などを携帯していたと言われています。
彼らにとって最も重要な武器は「情報」であり、怪しまれずに敵地に入り込み、無事に情報を持ち帰ることが最優先でした。そのため、旅人の必需品に偽装した道具や、護身用の隠し武器を発達させたのです。
服装の色は藍色と柿渋色の違い
映画やドラマでは「忍者は黒装束」がお決まりですが、史実の研究においては、真っ黒な衣装は月明かりのある夜間ではかえって輪郭が浮き出て目立ってしまうとされています。
そこで彼らが選んだ色は、それぞれの地域で手に入りやすい染料を使った、非常に実用的かつ科学的なものでした。
伊賀忍者は、当時の農民の作業着としても一般的だった「藍色(紺色)」を好んだとされています。

これには明確な理由があります。藍染め(あいぞめ)の成分には防虫効果があり、山の中でマムシなどの毒蛇や害虫から身を守る機能があったのです。
また、生地を強くする効果もあり、激しい動きにも耐えられました。視覚的にも、紺色は夜の闇に自然に溶け込む色であり、隠密行動には最適だったのです。
一方、甲賀忍者は「柿渋色(茶色・こげ茶色)」の衣装を用いたという説が有力です。

柿渋(かきしぶ)にも高い防水・防腐効果があり、耐久性を高めることができます。
そして何より、茶色は土や枯れ木、岩肌に紛れる「アースカラー」としての迷彩効果が非常に高かったのです。
山野を駆け巡り、地面に伏せて敵をやり過ごす甲賀のゲリラ戦術において、この色は最強のカモフラージュとなったはずです。
雇用形態に見る働き方の違い
彼らが誰のために、どのような契約で働いていたのか(ワークスタイル)という点も、両者の性格を浮き彫りにする非常に興味深いポイントです。
伊賀忍者は、現代で言えば「完全成果報酬型のプロ傭兵集団(フリーランス)」に近い存在でした。
彼らは金銭による契約関係を何よりも重視し、特定の主君に恒久的な忠誠を誓うことは少なかったと言われています。
極端な例では、敵対しているA軍とB軍の双方から依頼があれば、それぞれに忍者を派遣することもあったそうです。
戦場において、伊賀忍者同士が敵味方に分かれて戦うこともありましたが、それは「裏切り」ではなく、プロフェッショナルとして契約を履行した結果でした。
このドライで徹底したビジネスライクな姿勢こそが、伊賀流の強さの秘密だったのかもしれません。
対照的に、甲賀忍者は特定の主君に忠誠を尽くす「武士団(正規軍の特殊部隊)」のような性格が強かったようです。
当初は地元の近江守護である佐々木六角氏に協力し、その傘下で活動しました。六角氏が織田信長に敗れた後は、織田、豊臣、そして徳川へと仕える相手は変わっていきましたが、一度仕えた主君に対しては組織として忠義を尽くす傾向がありました。
彼らは「忍者」である前に、自分たちの土地を持つ「地侍」としてのプライドと、惣村としての団結力を重んじていたのです。
伊賀忍者と甲賀忍者の関係性やその他の違い

ここまでは基本的なスペックや歴史的背景の違いを見てきましたが、ここからは少し視点を変えて、両者の関係性や、現代社会における見え方についてさらに深掘りしていきましょう。
実際に戦ったらどっちが強いのか
「伊賀と甲賀、戦ったらどっちが強いの?」これは、忍者ファンならずとも誰もが一度は考える永遠のテーマではないでしょうか。
結論から言うと、「戦い方の土俵(フィールド)が違うため、単純な勝ち負けは決められない」というのが正直なところです。
伊賀忍者は、個々の戦闘能力(コンバットスキル)や破壊工作の技術において卓越していました。
厳格な階級社会の中で生き残るために磨かれた個人の技量は凄まじく、暗殺や奇襲攻撃、一対一の戦闘といった直接的な局面では、「個の強さ」を持つ伊賀に分があるかもしれません。火薬を使った攻撃力も脅威です。
しかし、甲賀忍者は組織力と情報収集能力、そして策略に長けていました。
彼らは「集団戦」やゲリラ戦を得意とし、地形を熟知した罠や、毒・薬を使った搦め手で相手を追い詰めます。
敵の情報を事前に掴んで裏をかいたり、補給路を断ったりするような長期的な戦略戦では、チームワークの甲賀が圧倒的に有利でしょう。
歴史上の直接対決は?
フィクションの世界では血で血を洗う抗争が描かれますが、史実において伊賀と甲賀が組織全体で全面戦争をしたという明確な記録はありません。むしろ、お互いの領域を侵さないように共存していた可能性が高いのです。
両者の仲は悪くないという真実
小説『甲賀忍法帖』やそのアニメ化作品『バジリスク』などの影響で、「伊賀と甲賀は宿敵同士で、会えば殺し合う」というイメージが定着していますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
実は、彼らは地理的に近いこともあり、技術的な交流も行っていました。
江戸時代に書かれた忍術のバイブル(秘伝書)である『万川集海(ばんせんしゅうかい)』は、伊賀と甲賀の両方の忍術が体系的にまとめられた百科事典のような書物です。
著者の藤林保武は伊賀の人間ですが、甲賀の忍術も分け隔てなく記録しています。これは、両流派の間に協力関係や共通の知識基盤があった何よりの証拠です。
また、日本史に残る大事件である「神君伊賀越え」のエピソードは決定的です。
1582年、本能寺の変が勃発し、堺に滞在していた徳川家康は絶体絶命の危機に陥りました。
明智光秀の軍勢や落ち武者狩りを避け、三河へ帰還するためには、険しい伊賀・甲賀の山中を突破する必要がありました。
この時、家康を護衛し、道案内をして命を救ったのは、協力し合った伊賀と甲賀の地侍たちでした。
彼らは敵対するどころか、時には手を取り合う良き隣人であり、ビジネスパートナーでもあったのです。
服部半蔵など有名な忍者の実在
私たちが名前を知っている有名な忍者が、どちらの流派に属しているか、史実と照らし合わせながら整理してみましょう。
伊賀流で最も有名なのは、やはり「服部半蔵(正成)」でしょう。
彼は徳川家康に仕えた武将で、「鬼の半蔵」の異名を持つ槍の名手でした。実は彼自身は忍者というよりも武士としてのアイデンティティが強かったのですが、伊賀忍者を統率するリーダー(コマンダー)として、江戸城の警備や隠密活動を指揮しました。
また、釜茹での刑で有名な大泥棒・石川五右衛門も、伝説では伊賀忍者の抜け忍(百地丹波の弟子)だったと言われています。
甲賀流で有名なのは、真田十勇士の筆頭「猿飛佐助」です。
彼は講談で創作された架空の人物ですが、モデルになった実在の人物(下澤佐助など)や、甲賀流の戸沢白雲斎に忍術を学んだという設定から、甲賀忍者の代名詞となっています。
また、戦国時代でも稀有な女性リーダーとして語られる「望月千代女(もちづきちよめ)」も甲賀にルーツを持つ人物です。
彼女は武田信玄の命を受け、「歩き巫女」のネットワークを構築して全国から情報を集めました。くノ一(女忍者)の元祖とも言われる彼女は、甲賀五十三家の筆頭である望月家の出身です。
現代における観光資源としての違い
最後に、現在私たちが旅行で訪れる際の「楽しみ方」の違いについてご紹介します。両方の市がそれぞれの歴史的背景を活かした、ユニークな町づくりを展開しています。
三重県の伊賀市は「忍者市」を宣言しており、行政と観光協会が一体となってエンターテインメント性の高い観光地作りを行っています。
中心となる「伊賀流忍者博物館」では、茅葺きの忍者屋敷(移築)でのからくり実演に加え、本物の武器を使った迫力満点の忍者ショー、手裏剣打ち体験などが楽しめます。

街中には忍者衣装のレンタル店が多く、衣装に着替えて城下町や伊賀上野城を散策できるため、家族連れや外国人観光客に大人気です。まさに「体験するエンタメ忍者」の世界です。
一方、滋賀県の甲賀市は、より歴史的なリアリティと生活感を感じられる「忍びの里」です。
特筆すべきは、現存する本物の忍者屋敷である「甲賀流忍術屋敷」です。これはテーマパークのセットではなく、実際に甲賀望月氏の旧邸宅として使われていた江戸時代の建築物がそのまま残っている貴重な遺産です。
隠し階段、落とし穴、どんでん返しなどのからくりを、当時の空気感の中で見学することができます。また、日本遺産に認定された城館跡が数多く残っており、静かに歴史の息吹を感じたい歴史ファンや城郭ファンにおすすめです。
日本遺産認定
伊賀と甲賀は、「忍びの里 伊賀・甲賀 -リアル忍者を求めて-」として、共同で日本遺産に認定されています。
ライバル関係として語られることの多い両者ですが、現代ではタッグを組んで忍者の魅力を世界に発信しているのです。
(出典:文化庁 日本遺産ポータルサイト『忍びの里 伊賀・甲賀』)
伊賀忍者と甲賀忍者の違いまとめ
ここまでご紹介してきた伊賀忍者と甲賀忍者の違いを、分かりやすく表にまとめてみました。
| 比較項目 | 伊賀忍者(伊賀流) | 甲賀忍者(甲賀流) |
|---|---|---|
| 拠点・地形 | 三重県伊賀市(閉鎖的な盆地) | 滋賀県甲賀市(開かれた交通の要衝) |
| 組織体制 | 厳格な階級社会(トップダウン) 上忍三家による支配 | 民主的な合議制(ボトムアップ) 惣(そう)による連合体 |
| 得意分野 | 火術(火薬・爆発物)、戦闘、破壊工作 | 薬術(毒・薬)、変装、情報収集 |
| 代表的な変装 | 大道芸人、手品師など | 薬売り(配置売薬)、山伏(修験者) |
| 働き方 | 金銭契約重視の傭兵(ドライ) | 特定の主君に仕える武士団(忠義) |
| 衣装の色(説) | 藍色(防虫効果・夜間迷彩) | 柿渋色(防水効果・土壌迷彩) |
| 現代の観光 | ショーなどのエンタメ・体験重視 | 現存屋敷や史跡などのリアル歴史重視 |
こうして比べてみると、伊賀忍者は「戦闘と破壊のプロフェッショナル」、甲賀忍者は「情報と化学のスペシャリスト」という色分けができるかもしれませんね。
どちらも非常に魅力的で、日本の歴史を語る上で欠かせない存在です。
三重県にお越しの際は、ぜひ伊賀で忍者の迫力とエンターテインメントを全身で体験してみてください。
そしてもしお時間があれば、少し足を延ばして山向こうの甲賀の里も巡ってみると、二つの流派の空気感の違いを肌で感じることができ、旅の思い出がより深いものになるはずですよ。

